読書

元軍も恐れる最強の蛮族、海洋国家・・・日本「使者?そんなのみなごろし」「小さな大世界史」を読みながら「元寇」を考えてみると、驚くほどに日本は非常識でした。

今、読み進めている本が「小さな大世界史」著者が前書きで述べていたように前著が「長すぎる、ビジネスマンはそんなに時間がない」とのような意見をもらったらしく、少し短くしたようです。

でも、まだまだ長い・・・歴史書なので、ちょっと文学的で、どう考えてもそんな言い回し要らないだろうと思う事が多い(笑)。

それはともかく、人類の歴史は非常に重厚なので、いかに短くまとめられていても、やはり長さと理解度は比例する。一見、本筋に関係ない事象でも、それをしることでより興味が湧き記憶に留まることは間違いない。

そして、Google氏が最近やたらと歴史の記事を進めてくる・・・まぁ、それなりの頻度でクリックしているからなのでしょうけれど。

そこで、元寇についての知見が少し広がった。

Contents

元寇とは!?

私が浅く認識している元寇とは、元の二度に渡る侵攻は神風によって相手方の船が難破して日本の勝利に終わった。しかし、犠牲の割には恩賞となる領土がなく、幕府は衰退した。

という感じでした。

しかし、最近ではそもそもそんな神風は無くて、正当に戦って武士が敵を追い返したし、台風も来た・・・といったイメージです。

例のGoogle史が進めてくる情報によると、中国人のほとんどは「元寇」を知らないらしい・・・日本に負けたから教えてないのではなくて、単にそんな昔の事は習わないのだそうです。

これは日本でも、様々な事が教科書から消えている事を考えると、納得がいく。日本でも「元寇」が消える日は来るかもしれない・・・。

ところで、中国にもコアな歴史ファンは居て、彼らは当然「元寇」は知っている。そこでも、ラッキー神風という認識は無く、やはり日本の武士の頑強な抵抗で追い返されたと言われていて、そもそも「ラッキー神風」は日本の首脳陣が作り上げた話しだというのです。

何故かと言いますと、与える恩賞がないから「あなた達の功績で勝利したんじゃなくて、神風で勝ったから恩賞が少ないのです」と言う雰囲気を流布するためにそういう認識を作り上げたらしいのです。

そういえば、1度目の侵攻、文永の役では台風が来たという記録はなく、神風は怪しいとされていますね。

いやはや、なんだか戦争を仕掛けた側の中国人が日本人よりもそんな考察をしているとは面白い。

海は圧倒的に強い

海は防衛側に味方する傾向にある。

というのが本書の考察である。とは言え、これは元寇に言及したものでも無く、日本の事でもない。

モンゴル帝国の項で出てくるのであるが、その前に巨大国家を築いた「アレクサンドロス大王」と「チンギスハン」でありますが、私個人は以下の用に認識しておりました。

アレクサンドロス大王は、ローマ方面には進軍せずに、東方に侵攻した。ギリシャ(マケドニアはギリシャからは他人扱いですが)はペルシャに侵攻されていたので、その鬱憤を晴らした。

チンギスハン(モンゴル)は、東は海の端まで侵攻し、はるか西方まで侵攻したが欧州までは届かなかった。

ローマ帝国は遅々とした侵攻であった

私は「ローマは強かった」と単純に認識しておりましたが、著者が

ローマ人の征服者が達成するのに数世紀を要したことをチンギス・ハンは20年弱で成し遂げた・・・

とさらっと記しておりますが、これはアレクサンダー大王も同じですね。

確かに、そうである。じゃあローマは強力じゃなかったのかと思いますが、その理由が「海は防衛側に味方する」と言う事象だと言うことなのです。

ローマの版図は海洋都市ばかりで、しかも密度が高い、つまり防御に適した都市郡なので侵略するのには時間がかかるが、侵略した後は守りやすいので長く保持することが出来るわけですね。

アレクサンダー大王は、基本的にはペルシャの整備された道を進軍し、ペルシャの版図をそっくり侵攻していきました。元々整備された都市、道なので戦争に勝てば侵攻は容易だったのですね(それでもすごい強さですが・・・)。インド侵攻の川越は失敗しましたね。

モンゴル帝国は、人もほとんどいない広大な荒野を進軍し、要所である巨大都市まで近づいた訳ですね。もちろん、それら巨大な障壁ですが、間に海が横たわっているのに比べれば容易であったのかもしれません。

海に囲まれた日本は最強

海を有する都市が守備に適しているとすれば、海に囲まれている日本は守備力最強ですね・・・。人類史上最も長い王朝を維持しているだけあって、その防御力は折り紙付きかもしれません。

なぜ、海が有利かと言うと、本書によると

敵の海軍の大群が視界に現れても、だれも取り乱すことはなかった。地元を知り尽くしていることが防衛側にとって非常に重要な財産だった。避難する港も提供してくれず、慣れない風が吹きつける海岸の沖合で波に浮かんでいるか投錨している侵略船団は、非常に攻撃されやすかったからである。

当初は、上陸戦で日本はやられたとされていますが、2度目の弘安の役では、日本は元寇防塁を築き、上陸させない作戦を取り、船に夜襲をしていましたね。
一度目は慣れない海からの侵攻ですが、二度目は当時の軍部だって、こう考えていたはずです
「いくら大群でも、敵船を海に浮かべておけば驚異ではないだろう。」

日本が朝鮮半島に出兵してボロ負けした事は何度かありますが、大陸からすると守備力最強の日本にわざわざ乗り込もうとは思わなかったのかもしれませんね。

米軍首脳だって、日本を本気で征服できるとは考えておらず、降伏させる方法をとったとされていますので、東からの侵攻に対しても海という最強の守護神が居て、西方に対しては「最強海洋国家・日本」として堂々と座すことが可能だったのですね。

故・チンギス・ハンも真っ青な最強蛮族、日本

では、フビライさんだって、海洋国家に攻め入る事が容易では無いことは知っていたはずです。だからこそ、二度目の弘安の役では当時世界最強の海軍を用意して挑んだわけですね。

でも、そもそも何故そこまでして日本に侵攻したか!?

以前は「元の高圧的な外交が原因」と言われていましたが、現代では当時の資料から「元は当初はとても丁寧に接してきた」と分かっています。

そりゃあ、フビライさんからしても、当時は南宋も健在の中、東方の島国に敵対したくも無く、強大国の元の丁寧な外交に応じないわけが無いと考えたのでしょう。

その結果・・・日本は元からの使者「杜世忠」を若干34歳の若さで死者に変えてしまいました。まさか、平和の使者を死者に変えてしまうなんて、漫画に出てくる最悪敵キャラにほかならぬ行為です・・・
しかも、杜世忠には妻子もいて、こんな句をのこしています

「門を出ずるに妻子は寒衣を贈り
我に問う、西行幾日にして帰ると
来る時もし黄金の印を帯びたれば
蘇奏を見て機を下らざるなかれと」

訳は多分こんな感じ

出かける時に妻子は、暖かい衣服をくれて
「日本行きからいつ帰るの」と聞いてきた。
私が役目を終えて帰ってくるのを
いつまでも待ってくれているだろう・・・

この時の句は『常立寺(じょうりゅうじ)』に残っており、当寺は、近くにある龍ノ口刑場で処刑された罪人達を供養するため建立されたのが始まりとされています。

与えられた使命を成すためにはるばる島国にやってきて、上陸してすぐに処刑されてそうですが・・・悪魔ですね・・・

さらに、その蛮行が元に伝わる前に次の使節としてやってきたのが、1279年6月、周福(しゅう・ふく)を正使とする総勢五名を、博多で全員斬りすててしまいました。

そりゃあ、フビライさんも怒って、世界最強の海軍を動員しますね。

ちなみに、夜襲と言われていますが、日本軍や「糞尿や死体を敵船に送り込む」と言う事もしていたそうです。喰らった方は堪ったものじゃないですね・・当時としても外交上あり得ない使者を惨殺する行為に奮い立ってやってきた挙げ句、海上で足止めされ、そんな物を投入されて・・・疫病に・・・

そして、日本軍はこう考えて居たでしょう・・・
「5月に乗り込んで来た敵艦隊を、海に張り付けておけば、いずれ台風が来るだろう・・・」と、日本人なら誰でも分かります。もしかしたら元軍はそれまでには上陸している予定だったのかもしれません。

前回の戦の経験を活かし、防塁を築いて負けなしを確信し。使者を惨殺し、挑発した挙げ句、糞尿や死体を投げ込み疫病が蔓延し、台風まで読んで(まるで日本が気候を操るシャーマンですね)、敵を葬る。

チンギス・ハンは、自軍を野蛮だと思わせることで、相手方の恐怖を煽り、侵略していったそうですが。それは現代日本でも、怖い組織の人たちと同じ戦略ですね「怖いと思われることが武器」なのですね、ヴァイキングもそうであったと言われていますが・・・

そんな元軍からしても、辺境の島国も日本兵の蛮族っぷりには驚いたのではないでしょうか・・・

蛮族の棟梁、北条時宗の使者処刑の背景

さて、ここまで来ると、理不尽に使者を処刑された上に、異国の地で死んでいった元軍が可哀想になってきますが、そもそも何故北条時宗は使者を処刑したのか!?と言う疑問がありますね。

大国、元と戦う理由など無いのに、使者を処刑すれば挑発行為になることは目に見えています。

もしかして、北条時宗は元の大国っぷりを知らなかった、なんて訳はありませんね。

当時、北条時宗は南宋の禅僧を招き、学んでいたので大陸の様子を知らない訳はありません。

その禅僧、蘭渓道隆いわく、
「宋は蒙古を軽く見て、
だらだらと交渉している間に侵略され、
国をなくしてしまった」
との言を聞いていて、交渉の場に付いても結局は侵略される。と危惧していたと考えれます。

また当初は、丁寧な書簡を送ってきていたのは事実でしょうけれど、結局その後、第一回目の侵攻文永の役を経ているわけですね。この侵攻は、威力偵察であったと言われていますが、その時は日本はこっぴどくやられていましたね。

その後、元は「今度はもっとたくさん軍隊を送るよ・・言うことを聞くなら今のうちだよ」と態度を変えていたとも言われています。

そして、二度目の侵攻では日本兵は寡兵ながらもよく戦い元軍を退けましたが、その時に蒙古防塁が非常良く出来ていて、役に立ちました。
という事は、もはや一度は刃を交えた元軍の使者はただのスパイである可能性もあり、仮に使者だったとしても蒙古防塁の存在を知り国に情報を持ち帰ることを防ぐことは出来ません。
どのような理由であれ、生きて返し、切り札の蒙古防塁を知られてしまえば、日本は敗戦していた可能性が高いですね。

この時も、国内に降伏派も多くいたはずで、北条時宗もとても悩んだことでしょう。日本のためを考えるならば、勝てるはずも無い相手に戦いたくもなく、使者を処刑することの方が恐怖であったかもしれません。

しかし北宋が滅びたように、交渉のテーブルに付いていながら、滅ぼされる可能性もありました。

また、北条時宗は無学祖元(むがくそげん)から、「莫煩悩(ばくぼんのう)」
という言葉を教わりました。
これは「あれこれ考えずに、正しいと思うことをやりとおせ」と言う意味で、その時に彼は祖国の独立を守る決意をしたのかもしれません。

負けて自国の民の多くを犠牲にすることに引き換えれば、敵国(こちらも有名な蛮族)の使者を処刑することも致し方なかったのかもしれません。
しかし、決戦は勝っても負けても双方に大打撃を与えますから、戦の勝者も得るものより失う物の方が多く、普通の指導者は極力決戦は最後までしません。

鎌倉幕府が衰退した要因は元寇で合ったことは間違いなさそうです。

結果、鎌倉幕府は自身も命の灯火をかけて、日本を異国の侵攻から守ったのですね。

小さな大世界


 

実際、小さな大世界で元寇に触れている部分を引用したわけでなく、元寇を考察するヒントになったのは「海は防衛側にとって有利」と言う点だけですが・・・色々と思いを巡らせるヒントになります。

読書にお勧めアイテム

読書台・書見台


 読書をしながら、両手が空くのはとても便利です。特に感想文を書く人にとっては必須です。このツールなしだとページが勝手に閉じるし重りを置くと見ずらいので、読書台があれば効率は格段にアップします。

ココフセン 便利なふせん


読み返したり、必要な部分をすぐに見つけるために必須アイテムです。
【ココフセン】の良いところは、シールが付いていて本の裏表紙に貼り付けておけます。
いつでもデスクに座ってPCを開けて読書が出来るわけではありませんよね、移動中やちょっと時間が開いたときには付箋をぺたぺたしておくと便利です。

コンパック A4文書を二つ折りにしてバックにいれて持ち歩く


 

大きなビジネスバックを持ち歩いているうちは良いですが、働き方の違いから、A4が入らないサイズの小さいバッグを持ち歩く事もありますよね。
A4紙を折りたたんでいると、割と開くのが手間だったり・・・
コンパックならA4を半分に折りたたんで持ち歩ける上に開くと一覧で見ることも出来ます。

関連記事