読書(小説)

神坐す山の物語 浅田次郎 双葉文書 読書感想文


書籍情報

題名
神坐す山の物語

著者
浅田次郎

総説

武蔵御嶽(ミタケ)山という霊山の神官家の血を半分引く人間の体験談である。
更にその者はそれなりの歳になっており、少年時代に父母、祖父母世代からの聞いた話であるから
一時代前の話である。

夜な夜な語られる物語を、少年の感性が捉えた
その出来事を大人になった彼が語る。

科学が様々な事柄を丸裸にし、見えざる者の存在はほぼ完全に否定され
多くのことが科学的調査によって、解明されてしまった現代。

敢えて、怪談を物語にするとは、難しい事である。それこそほんの少し前であれば、どこか怪談話は本当とは確信しないまでも、嘘とも確信出来ず触れ合うことが出来た。
それが、この現代において、怪談=つくり話、と確信され読まれる物となる、だからそこに信憑性を持たせることによって盛り上げることも無く、フィクションとして作っていかなければならない。

怖さ、不気味さ、そんなものを超えた表現力がいる中で、著者は申し分のない書き手と言える。
現在は、大衆・・・特に文章にあまり触れ合っていない者たちにも受け入れられる書籍が流行しやすいと思う。
超現代的な物語を、書きやすく、読みやすい表現で「共感」させるのが流行りの小説だとしたら
この書は、一時代前の物語を、書くのに相当な技術を要する文章で表現している。

その怪談話は、儚げで悲しげな雰囲気を常に漂わせながら、ネガティブ故に強烈に心打たれる。
そんな彼らの織りなす物語は、彼らが天に帰っていったからだけではない・・・
彼らが存在した世界自体が、忘却され、消滅しつつあるからこそ
一層、私の心の中に深く刻み込まれる。

武蔵御嶽山ってどこ??

武蔵御嶽山⇒検索

バスタ新宿から、車で1時間半ほど!
今は、開放的な雰囲気で観光名所にもなっている!!

本文では、武蔵御嶽山という霊山という表現であるが
東京都青梅の御岳山の山頂にある、武蔵御嶽神社というのが舞台であるようだ。

この話は嘘なの?幽霊っているの?

個人的な答えは、いない。

だが、著者は語る
「ふいに小径の先から、二頭の犬が歩いてきたのである。雪のような白と、夜のように黒い大きな犬だった」
それは本当にいた。と、そして、怪談話はすべて本当に聞いた話なのであると。

狐憑きにしては、現代では脳疾患の一種と位置づけられているし、そのような病気は原因は脳の疾患であると分かっていても現代でも摩訶不思議な症状も多い、痛みを感じない、恐怖を感じないなど、言葉で表現すると簡単だがそれらの症状を発した人の状況は想像以上である。解離性障害なども、実に摩訶不思議な症状である。
精神病と一言で言っても、身体的疾患によるもの、精神的疾患によるもの、またはそれ以外の原因、例えば脳に障害があるなど複雑である。
催眠術や催眠療法なども、まさに心霊現象のような世界である。

科学的な事実として
自分でない人格になったり、自分でも知らない記憶が人に呼び起こされたり、自分の行動を全く覚えていなかったり。
ときには、何かの能力が欠如した結果、ある分野で超人的な力を発揮する人もいる。

科学は、人の精神にメスをいれることによって、さらなる摩訶不思議を招いてしまったようだ。

これらの症状と、心霊現象の違いは、原因が脳にあるとか、幽霊の仕業とか言っている以外に違いはあまり、ない。

西洋医学が発達したが故に、東洋医学の有効性が再認識されたように。
物質的、薬学的治療が発達すればするほど、単純に心理的ストレスが体に一番悪いという説も増えた。

医者が処方した小麦粉を飲んでも、患者の容態は良くなったり、実際にはそうしていないのに、花粉を撒いたと嘘を伝えれば花粉症の人は発症したりする。
これらをプラシーボ効果と、科学的に言う。

じゃあ、お医者様を信じる心が、症状を良くするのだったら、神様にお願いするのも同じじゃないか?
そこには条件がある、お祈りする人が、神様を信じているという一点。

だから幽霊も一緒。人々は過去に、目に見えないもの、理解の範疇を超える事柄などを神様や幽霊の存在と結びつけた。
つまり、その者たちが起こした事柄、怪談話は(理解の範疇を超えているだけで)実在したのである。
何らかの形で、人々の生活に影響を与えた物事柄の現れなのである。

そのようなことで、私も
筆者の「これらは事実である」という意見に賛成だ。


 

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